遠旅組旅日記
2×4ツーリングクラブ"遠旅組"のブログです。
第6回日本3大銘木・三春の滝桜を見よう
鹿島神宮から鹿島灘を北上。野口雨情記念館、岡倉天心記念館、勿来の関、塩屋崎で美空ひばりをしのぶ。

今回の旅も「盛りだくさん」です。毎度ながら組長の趣味を押し付ける格好ですが、ご容赦ください。
 ともあれ、行程の順番に従って思いつくまま記します。

<集合場所=酒々井>
酒々井を「しすい」と読めますか。印旛沼周辺には難読地名がたくさんあります。「酒々井」もその一つでしょう(たとえば久住=くずみ=、八生=はぶ=、草深=そうふけ=、木下=きおろし=、卜杭=ぼっくい=など枚挙にいとまなしです)。ここは組長の青春時代の行動範囲でありました。組員の皆様ご存知の通り、組長は美少年のみぎり、この周辺をかけ回っておりました。高校は先日、脳梗塞でお倒れになったかの長嶋茂雄さんの9期後輩で、県立佐倉高校です。
 佐倉といえば、明治維新まで11万石の大大名・堀田正睦公の領地でした。堀田正睦は幕末の安政4年(1857)老中首座(現在の首相)に就任します。ときあたかもタウンゼント・ハリスがアメリカ総領事として下田に上陸、いわゆる日米修好条約を結び、堀田正睦は孝明天皇の勅許を得るため京都まで出かけますが、薩摩、長州などの攘夷派の圧力でうまくいきません。京都に滞在すること2ヶ月、勅許は得られず、むなしく江戸に帰ると、首相の座から追い落とされます。後を襲ったのが、あの安政の大獄で有名な井伊直弼です。
 何しろ11万石もの大藩ですから、明治になってからも影響力を持ちました。例の廃藩置県では「佐倉県」が置かれ、その中心地でした。ですから世が世なら、この一帯は「千葉県」ではなくて「佐倉県」となったかもしれないのです。
 話が横道に行きました。「酒々井」はその佐倉藩の重要な穀倉地帯でした。「地名ルーツ辞典」によると、もともとは「出水」であったらしく米つくりに重要な水が豊富にあったところという意味のようです。その水は酒作りにも向いているということで酒つくりのための井戸、ということで酒井それが「酒々井」と転じたとあります。「酒」を「し」と読むのは、このあたりの方言で「シュ」と「シ」と「ス」を区別して発音できないからのようです。
 ちなみに印旛沼がすぐ目の前に広がっておりますが、この沼を干拓して新田開発をし、さらに運河を掘って江戸との物流の要にしようと、その干拓事業を推進したのは、賄賂政治家として、きわめて評判の悪い「田沼意次」なのですよ。

<潮来>
ここが東関東自動車道の終点です。ここから一般道に出て、鹿島に向かいます。これもまた難読地名ですよね。知らない人は絶対読めないと思います。しかし、「潮が来る」と書いてなんで「いたこ」なんでしょう?
 やはり「地名ルーツ辞典」によると、古くは「板来」(いたく)だったようです。それを例の黄門さまこと水戸光圀が近くに鹿島神宮があって「潮宮」(いたみや)があることから「潮来」と改めさせた、とあります。もともとはイサコ、イタコ、イソコ、イラコなど「砂子」(砂地)から来ているようです。ともかく霞ヶ浦、利根川に近く、平らなところです。

<鹿島神宮>
今回のツーリングのスタートはここからです。ここから旅の安全の祈願をして、ゆるりと参りましょう。
 最近は「鹿島アントラーズ」の本拠地として、つとに有名になりましたが、それよりずっと前、それこそ神話の時代からこの鹿島は重要な場所でした。文献で言うと8世紀初頭に完成した「常陸国風土記」に詳しくその由来が書かれています。
 祭神は「建御雷之男神」(たけみかづちのおのかみ)=日本書紀では「武甕槌神」=。この神様は大国主命に国譲りをさせて、天孫(ににぎのみこと)が葦原中つ国に降臨するための準備を整えた神様として存在しています。剣の神様、すなわち武勇の神様でもあります。鹿島神宮にはこの武甕槌神が神武天皇の東征に際して下されたという「霊剣」がまつられているのだそうです。
 鹿島神宮は古くから「武勇の神様」として知られていましたから平将門も詣でたし、何より徳川家康が関が原合戦の勝利を祈願してお参りし、そのご利益で豊臣を滅ぼすことができた、というので、歴代の徳川将軍はことのほか、この神社を崇拝しました、今の拝殿、本殿は2代将軍秀忠が奉納したものです。御三家の一つ、水戸徳川家は、この鹿島神宮を守るためにいたといってもいいくらいです。

組長は先日、この鹿島神宮の観光協会会長さんとお知り合いになりましたので、いろいろ便宜を図ってくださると思います。

さあ、先を急ぎましょう。鹿島灘沿いを北上して、東海村、大洗、水戸、日立と進み、一気に磯原まで参ります。





 <野口雨情記念館>
からすなぜなくの
からすは山に
かわいい七つの子があるからよ
  かわいかわいとからすはなくの
かわいかわいとなくんだよ
山の古巣にいってみてごらん
丸い目をしたいい子だよ



一、 赤い靴 はいてた
女の子
異人さんにつれられて
いっちゃった

二、 横浜の埠頭から 船に乗って
異人さんに連れられて 行っちゃった

三、 今では青い目に なっちゃって
異人さんお国に いるんだろう



青い目をしたお人形は
アメリカ生まれのセルロイド

日本の港に着いたとき
いっぱい涙を浮かべてた

「私はことばがわからない
迷子になったら なんとしょう」

やさしい日本の 嬢ちゃんよ
仲よく遊んでやっとくれ
仲良く遊んでやっとくれ
ここに掲げた童謡は日本人ならだれでも知っていますね。これらの童謡の作詞者が、北茨城・磯原出身の野口英吉こと野口雨情です。
 雨情は明治15年(1882年)、ここ磯原で廻船業を営み、父は村長を勤めるほどの名家、水戸藩主がご休憩所として立ち寄るほどの御殿を持った家の長男として生まれました。
雨情は早稲田大学に進学したころから、詩に目覚め、同人雑誌などの仲間に入るのですが芽が出ません。そのうち、父が死んだため故郷に帰って家督を継ぎます。が、文学の志捨てがたく、再び上京、しかし有名になるまでには至らず、北海道に渡って新聞記者などをします。上記の「赤い靴」はこのときの体験がもとで生まれました(後述)。
明治45年、故郷に帰って村の公職などにつきながら、創作活動を続けていたところ、思わぬチャンスが飛び込んできました。雑誌「金の船」から童謡を書いてくれという注文か来たのです。これは早稲田時代から交友のあった西条八十の紹介でした。こうして生まれたのが「十五夜お月さん」であり、作曲家・本居長世とのコンビの誕生でした。上記の「七つの子」「赤い靴」「青い目をしたお人形」などはみんな雨情と本居長世のコンビで生まれたものでした。「十五夜お月さん」は、本居長世の長女みどりが歌って大評判になりました。そして長世はみどりを連れてアメリカ公演に旅立ちます。大正12年12月、関東大震災からわずか3ヵ月後のことです。
 アメリカでもこの「十五夜・・」をはじめとする日本の童謡は大評判になりました。本居長世の弟子で、長世の伝記「十五夜お月さん=本居長世 人と作品」(三省堂)を書いた金田一春彦によると、「童謡というジャンルは世界の音楽史のなかにどこにも存在しない。まさに日本で生まれた世界の音楽」なのだそうです。
 お気づきでしょうか。「本居長世」とは、あの江戸時代の国学者「本居宣長」の子孫なのです。宣長の血筋は2代目で途絶えますが、弟子がその跡をついで、連綿と本居家を継いで来ました、長世は雨情より3歳年下ですが、国学の家に生まれ、日本の伝統を受け継ぐことが宿命付けられていたのです。が、国学の道には進まず、出来立ての音楽学校に進み、作曲家になってしまったのです。山田耕筰は音楽学校の同級、中山晋平はその後輩で弟子に当たります。
 雨情は中山晋平とのコンビでもたくさんの童謡を残していますが、やはりなんといっても本居長世との出会いが運命的でした。そしてさらに運命的なのは、昭和20年、太平洋戦争が終わった年、雨情はその終戦を知らず、同年1月に死んだのですが、長世は終戦後の同年10月に雨情の後を追うように亡くなりました。
 なぜこれほど長世にこだわるのかと申しますと、この本居家は組長宅のすぐそば、1本筋を隔てただけのお隣さんなのです。ちなみにその弟子の金田一春彦も、そのすぐそばに住んでいます。これは余談でした。

 さて、前に掲げた童謡にまつわる話をいたしましょう。
まず「七つの子」です。実はこの歌は不思議な歌です。会話体になっているこの詩はいったいだれが話しているのでしょう。当初から諸説あったそうです。まず母子の会話とする説です。「からすなぜなくの」と子供が母親に尋ねる。すると母親が「からすは山に可愛い七つの子があるからよ」と答えます。なるほど、思いますが、それだと「山の古巣にいってみてごらん」がわからなくなってしまいます。それでこれは「からす本人が話している」という設定という説明がなされました。そしてもう一つ「七つの子」とは年齢が7歳なのか、それとも7羽の子供がいるという意味なのか、という議論です。ともに「ナゾ」です。雨情はなんと言っているのでしょうか。記念館の学芸員に質問してみたらいかがでしょう。
記念館にはその答えらしいものも掲げてあります。
次の「赤い靴」は実話に基づいて作られました。雨情が北海道の北鳴新聞社に勤めていたころの話です(雨情はここで石川啄木とも知友となるのですが、この歌とは関係ありません)。同僚記者に鈴木志郎という人物がいました。この鈴木は「妻が娘を東京においてきた」という話をしました。その妻とは岩崎かよといって、鈴木と再婚する前に「きみちゃん」という娘をもうけていました。「きみちゃん」は明治35年生まれだったそうです。かよは再婚に当たって、3歳のきみちゃんを麻布・鳥井坂教会のアメリカ人宣教師チャールズ・ヒュエキー夫妻に養女に出したのです。雨情はこの話を聞いて、「赤い靴」の着想を得ます。
この娘はきっとそのアメリカ人牧師に連れられてアメリカに行ってしまったのだろう、というのは雨情の想像です。実際、牧師はその後帰国してしまったのですからね。ところが、つい最近、「少女はアメリカに行かなかった」と証言する人が現れたのです。「この少女きみちゃんは私の姉。9歳のとき、東京で死んだ」というのです。その妹さんの証言によると、きみちゃんは重い結核に冒されていて、牧師はアメリカに連れて帰るのを断念。孤児院に入れたのだそうです。そして薄倖の少女はわずか9歳でその孤児院でなくなったのでした。

「青い目の人形」は、1927年(昭和2年)、日米友好のしるしとして1万2000体が日本に送られたという歴史を映しています。満州事変、日本の国際連盟脱退、世界恐慌と日本が国際社会の中で孤立化を深めていく時代、アメリカからこんなにたくさんの友好団がやってきたのでした。(かわりに日本からは市松人形が海を渡りました)。この人形は日本中の小学校に送られ、友好のしるしとして子供たちのアイドルになったのです。が・・・まもなく太平洋戦争勃発。この人形は「スパイ人形」の汚名を着せられます。そして日本中の小学校で、この人形を火あぶりにする行事が相次いだのです。なんとばかげた、と思うかもしれませんが、戦争の狂気としか言いようがありません。ところが中にはこんなばかげたこと、と考える教師もいたのですね。何体かが学校の屋根裏などに隠されて、難を逃れたのです。現在、日本中で難を逃れた青い目の人形250体あまりが見つかっています。
 これは悲しい歴史なのですが、雨情はこの日米友好の青い目の人形を歌にしたのではなかったようです。この詩は友好の青い目の人形がやってくる前に作られたものだからです。生まれてまもなくはかなく死んだ娘のために買った「キューピーさん」を見ながら作ったのだそうです。しかしこの歌は、友好の青い目の人形の悲劇とあいまって、戦争の無残さを今も伝えていると思いませんか。

いずれにせよ、雨情は童謡や民謡、ご当地ソングなど2000を超える詩を書いたといいます。残りはぜひ、記念館で確かめてみてください。
またすぐ近くに雨情の生家もあります。歩いていける距離です。こちらもぜひ行ってみましょう。


<<五浦(いずら)海岸と岡倉天心>
磯原から10キロも行かないうちに、右側に「五浦海岸」の標識が出てきます。鵜島の鼻と呼ばれる岬に向かって行きましょう。灯台を過ぎると、五浦海岸最大の名所「六角堂」の前に出ます。ここが岡倉天心の書斎であり、明治末期の日本の文化人のサロンだったところです。六角堂のそばには、横山大観、下村観山、菱田春草ら、日本画壇の中心をなした巨匠たちがアトリエを構え、日本美術の中心となった「日本美術院」があったのです。
この「六角堂」は記念館になっていますので、ぜひ入ってみましょう。入場料200円は、とても安いと思えるほどの何かがあります。

 日本の近代化に岡倉天心が果たした役割は計り知れない、と組長は愚考いたします。戦後の教育の中ではあえて軽視され、忘れ去られた格好でもありますが、岡倉天心を正当に理解しなかったことが、あるいは岡倉天心を悪用したことが、日本の悲劇を生んだとさえ思うのです。
 ごく簡単に岡倉天心とはどんな人物であったかを振り返ります。

天心(本名・覚三)は、1862年(文久2年)、福井藩士で藩の命令により横浜で貿易商をしていた岡倉勘右衛門の次男として横浜で生まれました。ペリー来航から9年後、明治維新の6年前です。覚三は開明派の父の命令で幼児から英語を学んだといいます。
明治10年(1877年)、16歳で東京帝国大学文学部に入学します。専攻は政治学、理財学でした。いずれ官吏になるか、政治の世界に入るかという道です。そしてその通り、3年後に卒業と同時に文部省に入り、音楽取調係という仕事につきます。このまま行けば天心は美術ではなく、音楽の道に進んだのかもしれません。しかし歴史の皮肉が二つありました。
一つは東大の卒業論文で思わぬハプニングに見舞われたことです。天心は在学中に結婚します。天心18歳、新妻はまだ14歳でした。この新妻はまもなく妊娠します。そのせいでしょうか、かなりヒステリックになったようです。それで天心の卒業論文「国家論」を、些細な夫婦喧嘩の末に燃やされてしまったのです。提出期限が迫っています。それを出さなければ卒業できません。天心は急遽、論文を書き直します。そのテーマが「日本美術論」でした。わずか1週間で書き上げることのできるテーマはこれしかなかったということです。この論文が当時、東大の哲学の教授をしていたアメリカ人学者・フェノロサの目に留まります。フェノロサは明治11年に来日し、東大で哲学、理財学を講じていました。また日本美術に大変な関心を示し、研究を進めていたのです。そのフェノロサが天心に目をつけました。天心はフェノロサの通訳を勤めていたので、在学中がから交流はありました。そこでフェノロサは、明治15年(1882年)、文部省の役人になったばかりの天心を連れて、京都、奈良の古社寺めぐり、日本美術研究の旅に出たのです。フェノロサの通訳を務めましたが、この旅行で、天心は日本美術への目を開かれます。フェノロサ先生のお陰でした。

 そのころ、文部省での天心の仕事も転機に来ていました。アメリカ留学から帰った伊沢修二とことごとく意見が合わないのです。伊沢はまさに洋楽一辺倒の教育方針で、日本古来の音楽文化を否定する立場でした。それで、天心は音楽取調係を解任され、内記課というところに異動させられました。これも美術に傾倒していくきっかけとなりました。

明治19年(1886年)、天心はフェノロサ先生について欧米出張を命じられました。文部省の美術取調係として仕事でした。同じ船に乗ったのが南方熊楠でした。ほぼ1年間の欧米視察を終えて帰国するのですが、ここにおもしろいエピソードがあります。
 天心は横浜を出るときはりゅうとした洋服姿だったのですが、ヨーロッパに着くとあるときから着物を着るようになり、それからはずっと和服で通したのでそうです。これについて後年、こんなことを言っています。
「英語が不自由なくしゃべれるようになったら、海外では着物を着るようにしろ。ただし、ことばがブロークンなうちはだめだ・・・」とね。近頃のどこぞの右翼みたいな国粋主義とは違うのです。

 明治22年(1889年)、大日本帝国憲法が発布されます。そしてこの年、東京美術学校(後の東京藝術大学)が開校するのです。フェノロサらの努力の結果です。横山大観、下村観山、菱田春草らが1期生でした。天心は翌年、ここの校長に就任します。以来、8年間校長を務めました。

美術学校の校長をしながら、海外への関心も深まりました。明治26年、中国に旅立ったのです。日清戦争が始まる直前でした。天心はかつての都・長安(西安)を目指したのですが、奥地は危険だということで、中国服で身を固め、頭には辮髪までつけたのというのですから、徹底していました。

やがて、美術学校にも転機が来ます。洋画の黒田清輝がフランスから帰って、日本の画壇に洋画を導入しました。天心の生き方とは相容れません。天心攻撃が始まりました。そこへ追い討ちをかけて、スキャンダルまで利用されました。かつてアメリカから帰るとき、同行した九鬼隆一男爵夫人との恋愛事件が持ち出されたのです。結局、天心はすべての官職から退きます。そしてインド旅行に旅立ってしまったのです。

しかし、このインド旅行はその後の天心を決定付けました。欧米列強のアジア侵略主義の本質を見抜いたのです。特にイギリス帝国主義のインドでの振る舞いを見て、天心は「アジアは一つ」「アジアよ目覚めよ」と高らかに主張し始めたのです。カルカッタのホテルで一気に書き上げたといわれる「東洋の目覚め」さらに、「日本の目覚め」は相次いでロンドン、ニューヨークなどで出版されました。もちろん英語で書かれたものです。この天心の主張は欧米で大きな注目を浴びました。特に明治39年(1906年)、ニューヨークで出版された「茶の本」は、瞬く間にベストセラーになり、すぐにドイツ語、フランス語の翻訳本も出版されました。しかし肝心の日本ではいずれも、ほとんど話題にさえ上りませんでした。
 インド旅行から帰った天心は、北茨城の五浦に土地を求め、そこで思索と海釣り三昧の生活を送るようになります。しかし、隠居生活に入ったわけではありません。天心は1年の半分はボストン美術館で日本美術の分類整理をするという仕事を請け負い、アメリカで暮らすことになったのです。その一方で、明治39年には、日本美術院を五浦に移すことを決め、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山の4人が東京から移住してきました。そして六角堂のすぐそばに4人はアトリエを構え、制作に専念するようになったのです。
 これは天心が死ぬまで続きました。天心は旅先の中国で体調を崩し、大正2年(1913年)3月に帰国したのですが、その年の9月に新潟県赤倉の別荘で生涯を終えました。52歳でした。病気は糖尿病によって腎臓病などを併発したものでした。

このように天心が日本美術史に残した足跡は大きなものでした。それ以上に「アジアは一つ」ということばに象徴されるように(六角堂記念館内に横山大観揮毫による巨大な碑があります)、欧米列強の侵略からアジアを守れと叫んだ思想家でもありました。アジア主義を唱えながら、日本よりも欧米で理解されたのというのも皮肉です。いえ、昭和になってから、いわゆる「五族協和」とか「大東亜共栄圏」という日本軍閥のご都合主義思想に利用されました。ですから日本の帝国主義侵略のイデオローグのようにさえ見られたのです。死んで20年以上もたってから、思わぬところで、思わぬ方法で利用され、それは戦後にまで後を引いたのです。日本が太平洋戦争に負けると、今度は天心批判が展開されたのです。大東亜共栄圏思想のもとになったのというのです。ともに天心にしては迷惑千万な話だったことでしょう。

いずれにせよ、明治時代に生まれた、とてつもない国際人でした。彼こそが本当の国際人であったと、私は思うのです。着物を着るにも心して着よう、と思うところです。


<勿来の関>
五浦海岸の北はもうみちのく「福島県」です。みちのく=道の奥には、昔関所がありました。みちのくの入り口には「三関」といって、白河、安積、そして勿来の三つの関所が設けられました。645年、大化改新による政策でした。。
  都をば霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く白河の関
と歌われたように、長い長い旅の末に、都人はみちのくにやってきたのでした。
「勿来の関」は字のごとく、「来る勿れ」という関所です。つまりそれだけ険阻な場所にあったということでしょうか。
 陸奥と常陸を分けるトンネルを抜けると、すぐ左側に「勿来の関跡」という標識が出てきます。ちょっと山道を上がると「関所跡」に出ます。しかし、この場所に本当に関所があった場所かどうか、定かではないようです。ちゃんと案内板にもその旨が記されていて良心的です。でも雰囲気は味わえます。

勿来の関は古くは「菊多関」と呼ばれ、「勿来」と呼ぶようになったのは江戸時代になってからだそうです。江戸時代以降、頼山陽、菅茶山、幸田露伴、徳富蘆花、長塚節、斎藤茂吉らがこの関所跡を訪れ、それぞれに文学的業績を残しています。今は源義家の騎馬像が立っています。義家は後三年の役(1087年)で東北を平定したのですが、その戦の折、この関所を通ったのです。そして次のような歌を残しました。

   吹く風を なこその関と思へども 道もせにちる山桜かな

どうです。やっぱり「さくら」です。義家が見たのと同じ山桜を探してみましょう。


<塩屋崎>
    髪の乱れに手をやれば
    赤い蹴だしが 風に舞う
    憎や 恋しや 塩屋の岬
    投げて届かぬ 想いの糸が
    胸に絡んで 涙をしぼる

    捨てたお方の 幸せを
    祈る女の 性かなし
    辛らや 重たや わが恋ながら
    沖の瀬をゆく 底引き網の
    舟にのせたい この片情け

    春は二重に 巻いた帯
    三重に巻いても あまる秋
    暗や 涯てなや 塩屋の岬
    見えぬ心を 照らしておくれ
    ひとりぼっちに しないでおくれ

ご存知「みだれ髪」です。作詞は星野哲郎、作曲は船村徹。美空ひばりが歌った、文字通りの「名曲」です。「塩屋の岬」とあるのですから、「ご当地ソング」には違いありませんが、そんなことどうでもいいくらい、全国的なヒットでした。
くどくど説明は要らないでしょう。美空ひばりも岡倉天心と同じ52年の生涯でしたね。今生きておられれば5月29日で67歳におなりになる。
 塩屋崎にはこの歌碑と、ひばりの記念碑もあります。それによると、「みだれ髪」は彼女の復帰記念曲だったそうです。それが大ヒットしたので、ご当地のいわきでもコンサートをするはずだったのですが、病気の再発でそれも果たせず、次に歌碑の除幕式に来る予定を立てたのに、あの昭和天皇のご病気で「歌舞音曲の自粛」によってこれも中止になったそうです。昭和63年10月のことです。ひばりさんは昭和天皇の後を追うように、平成元年6月24日に亡くなりました。間質性肺炎という難しい病気でした。とうとうこの「塩屋の岬」には立つことがなかったのですね。

 ここで1冊、本を紹介させてください。
 昭和40年(1965年)、弘文堂という出版社から出た「美空ひばり=民衆の心をうたって20年=」という本です。著者は「竹中労」と言う人です。実はこの人は、ジャーナリストでした。この人こそジャーナリストでした。組長が新聞記者になりたてのころ、この人のご指導のお陰で、ジャーナリストとは何かを知り、ジャーナリストとして生きていこうと決意することができました。この竹中労さんの代表作の一つがこの「美空ひばり」です。
古本屋を丹念に探さないと見つからないかもしれませんが、一人でも多くの人に読んでもらいたい本です。絶対に汚さない、絶対に返すとお約束してくださるのであれば、組長の宝物のこの本をお貸しします。読めば間違いなく「美空ひばり観」が変わります。

「塩屋崎」をインターネットで調べたら木下恵介監督の映画「喜びも悲しみも幾年月」の舞台で知られる・・・とありました。
 年配の人(組長世代より上)なら
   おいら岬の 燈台守は
   妻と二人で 沖行く船の
   無事を祈って 灯をともす 灯をともす

という若山彰の伸びやかな歌声が耳によみがえってきます。
組長も塩屋崎はこの映画の舞台と信じて疑いませんでした。そこで「つたや」に走って、ようやくこの映画を見つけ、見ました。昭和31年制作の第1作と昭和48年の「新・喜びも悲しみも・・」の両方です。
ご報告いたします。いずれの映画でも塩屋崎は舞台になっておりません。あえて言うなら第1作でほんの数秒間、戦争の犠牲になった灯台ということで空撮で紹介されるだけです。

 ところが「塩屋崎」が舞台というのは、まったく違う意味だったのです。木下恵介はなぜ、この映画を作ったのかというエピソードです。昭和31年、ある婦人雑誌に「海を守る夫ともに20年」という手記が掲載されました。この筆者は田中きみ(おっと偶然だな。この人も「きみちゃん」だ)という女性で、塩屋崎灯台の燈台守の奥さんでした。この手記を読んだ木下恵介氏が感動し、映画制作を決意したのだそうです。


滝桜=三春町>
さて、今回のツーリングの最大目的地は、この「滝桜」です。今、書店にあふれている「さくらの名所」にも昨年の高遠同様必ず、載っている場所です。
わずらわしい薀蓄はよしましょう。現地でさくらを見て、触って感じましょう。

 さまざまの こと思ひ出す 桜かな   はせを

「はせを」とは「芭蕉」ですよ。本当にさまざま、人それぞれに桜には想いがありますよね。
 最後に、桜にまつわる歌を3首だけ紹介させてください。

  しきしまの 大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花
  めづらしき高麗もろこしの花よりも あかぬ色香は桜なりけり
  桜花深き色とも見えなくに 血潮に染める わが心かな

いずれも「桜狂い」と言われた本居宣長の歌です。そう野口雨情の項で紹介した本居長世のご先祖です。
この歌が、岡倉天心と同じように戦前の軍国主義に曲解され、利用されたんですよ。そんなことに興味があったら岩波書店からすごい本が出ています。

   「ねじ曲げられた桜=美意識と軍国主義」

という本です。著者はアメリカ・ウィスコンシン大学の文化人類学者、大貫恵美子という方です。ハードカバー600ページを越える学術研究書ですが、「目からうろこ」です。推薦します。

「滝桜」は」樹齢1000年といいます。そこでこの桜が生まれた1000年前とはどんな時代か、ちょっと資料を添えます(実は先日の幹事会で、だれも即座に答えられませんでしたから)。

  簡単です。「枕草子」「源氏物語」の時代です。まさに平安文化が絢爛と咲き誇っていたころです。
  この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることのなしと思えば

そうです。藤原道長が権勢をほしいままにしていたころです。この桜はそんな時代からここに立っておいでなのですネェ。




















オプショナルツアー「智恵子抄の旅」

    智恵子は東京には空が無いといふ
    ほんとの空が見たいといふ
    私は驚いて空を見る
    桜若葉の間に在るのは
    切っても切れない
    むかしなじみのきれいな空だ
    どんよりけむる地平のぼかしは
    うすもも色の朝のしめりだ
    智恵子は遠くを見ながらいふ
    阿多多羅山の山の上に
    毎日出てゐる青い空が
    智恵子のほんとの空だといふ
    あどけない空の話である
       (「あどけない話」昭和3年)

* **************

    あれが阿多多羅山
    あの光るのが阿武隈川
    かうやって言葉すくなに坐ってゐると
    うっとりねむるやうな頭の中に
    ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります
    この大きな冬のはじめの野山の中に
    あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを
    下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう

・ ・・・・

ここはあなたの生まれたふるさと
あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒庫
それでは足をのびのびと投げ出して
このがらんと晴れ渡った北国の木の香に満ちた空気を吸はう
あなたそのもののやうなこのひいやりと快い
すんなりと弾力のある雰囲気に肌を洗はう
私は又あした遠く去る
あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ
私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ
ここはあなたの生まれたふるさと
この不思議な別箇の肉身を生んだ天地
また松風が吹いてゐます
もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい

あれが阿多多羅山
あの光るのが阿武隈川
   (「樹下の二人―みちのくの安達が原の二本松松の根かたに人立てる見ゆ―」 大正12年)


ともに高村光太郎が愛妻の智恵子を歌った詩ですね。明治を代表する彫刻家・高村光雲の長男に生まれた光太郎は父の跡を継がず、詩人になります。そして大正3年、安達太良出身の長沼智恵子と結婚します。幸せはしばらく続くのですが、智恵子の実家が破産したころ(昭和4年)から智恵子は体調を崩し始め、昭和6年には明らかな精神分裂の兆候が現れ始めます。それからおよそ7年近い闘病生活の末、昭和13年(1938年)、智恵子は死にます。53歳でした。光太郎はその後18年生き続け、昭和31年、74歳でなくなっています。

 上記の詩二編は、智恵子の故郷である二本松市の霞が城址に詩碑になってあるそうです。見に行きませんか。そしてせっかくですから、二人が坐って安達太良山や阿武隈川を眺めた松の根方までひとっ走りしませんか。

組長からの2日目の提案です。
【2004/04/25 00:00】 旅日記 | TRACKBACK(0) | COMMENT(0)

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